チラシの裏について



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        レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_   !:::l ) } ト
       ヾ¨'7"ry、`   ー゙='ニ,,,`    }::ヽ(ノ  チラシの裏にでも書いてろ
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「語り手と聞き手(または読み手)を持たない物語はありえない。
 これはわかりきったことかもしれぬが、しかしまだほとんど活用されていない」
-ロラン・バルト 『物語の構造分析』より


 熊先生のAAはともかく、「チラシの裏」についてちょっと考えてみる。
 匿名掲示板で自分の瑣末な事柄のみのレスに対して使われるこの「チラシの裏〜」という突っ込み。
 この突込みが一般化するに伴い、自分のWeb日記などを「チラシの裏」と卑下する用法もわりと普通に目にする昨今です。
 私も使いますし、他人のブログや日記を読んでいて「これはチラシの裏だなぁ」とか思うこともしばしば。
 ブログやweb日記は公開を前提としたもの、つまり自分以外の読者の存在を想定して書かれるべきものであるはずです。
 ところが私もしばしば書いていて「あ、他人様からするとチラシの裏だなこりゃあ」みたいなものになってしまう。
 その理由として文章の書き方と構成に問題があるのでは、と思いつきました。
 日記に書こうとする内容について作者が所有する情報量が100とすると、実際に書かれる日記の情報量はどの程度になるのでしょうか。
 たとえば私は先日CoH/CoVのオフ会に参加し、そのことをこの日記に書いたわけです。
 当然、オフ会で私が体験したこと全てを書くわけにはいかないので、情報の取捨選択が行われます。
 私が池袋に行くまで山手線の車内で、その前の神田で購入したハヤカワ文庫『アイヴォリー』を読んでいたとかいうような部分は書く必要性が低いのでカットします。
 (書く必要性の高低の判断基準はここでは議論しません)
 逆にネタとして事実を膨らませたり歪曲したりする部分もあります。
 このような過程を経て駄文が生まれるわけなんですが、駄文どころかチラシの裏の走り書きになることがある。
 …この文章自体がチラシの裏的になってきたので一旦止めて明日に続く。