ラッセル・ホーバンと小田扉

 ここ二ヶ月ほど、ラッセル・ホーバンの『ボアズ=ヤキンのライオン』という小説をゆるゆると読んでいる。
 べつにそれほど長編ということもないのだが、いろんな本を並行して読んでいるうちについ放置しがちになってしまう。
 それでも、独特の面白さがあるのと、なにより「どうオチをつけるのか」と気になっているので少しずつ読んでいる。


 1970年代のヨーロッパとおぼしき場所ながらも、既にライオンが死に絶えてしまった世界。
 地図屋のヤキン=ボアズは「聖人には、幻視と奇跡の地図を、お医者には病気と事故の地図を、盗人にはお金と宝石の地図を、そして警官には泥棒の地図を」と必要なもののありかを示した地図を作り続けてきた。
 彼の最高傑作「親地図(マスターマップ)」は「一人前の男としての生活がしっかり始められるような」地図として完成し、息子のボアズ=ヤキンに送られるはずだった。
 しかし「親地図」を見た息子の何気ない一言、「ライオンは?」という言葉によりヤキン=ボアズはライオンを探すために家を出てしまう。
 息子のボアズ=ヤキンは不本意ながら地図屋を継ぐが、彼もまたいつしかライオンと、消えた父と、「親地図」を求めて母や店、そして恋人を残して旅に出るのだった。


 地図屋の父親と息子のエピソードが交互に語られながら進んでいくうちに、父の元には絶滅したはずのライオンが姿を現し始める―ただし、彼にしか見えないのだが。
 息子は旅を続ける過程で様々な出来事に遭遇し、世間を知っていく。
 ハヤカワ文庫FTということでファンタジーに分類されるであろう本作だが、妙な味わいがある。
 父親はライオンを探すはずが別の街でいつしか過去を消して別の人生を歩み始め、若い恋人もいたりする。
 若者がヒッチハイクしてみるとトラックの運転手が「ウホっ」な人で迫られたりとか。
 ファンタジーといっても、例えば最近始まった土曜朝のアニメ『デルトラクエスト』みたいな異世界臭バリバリで絵空事めいた冒険をするとか、そういう方向ではない。
 現実とちょっとだけ違った世界(ライオンが絶滅している、とか)を舞台に、ちょっと奇妙な出来事が日常の中に起きる。
 訳者あとがきの中で荒俣宏が説明しているようにこの作品は「寓話(アレゴリー)」なのだ。


 最近、小田扉の『江豆町 ブリトビラSFロマン』を読んでいて、『ボアズ=ヤキンのライオン』と似た印象を受けた。
 架空の街「江豆町」を舞台に、「小田扉ワールド」としか言いようがないエピソードが積み重なっていく短編連作。
 ビッグコミックスピリッツ誌に連載されている『団地ともお』よりも不思議・不条理な方向性が強く、「濃い目の小田扉」という味だ。
 その中の、街のシンボル「犬像」と母親が蒸発した少年のエピソードはファンタジーであると同時に生臭く現実的な要素がさらりと描かれている。
 基本は「ゆるいギャグマンガ」なんだが、わりと救いのない厳しい現実もきっちり描写されるのが小田扉作品の味だと思っているが、『江豆町』はその振幅がデカい。
 『江豆町』を読んで、『ボアズ=ヤキンのライオン』の脳内ビジュアルイメージが小田扉イラストになった。
 ハヤカワさん、復刊の折にはカヴァーと挿画を小田扉にしませんか?
 (絶版のハヤカワ文庫FTの表紙は天野嘉孝

ボアズ=ヤキンのライオン (ハヤカワ文庫 FT (69))

ボアズ=ヤキンのライオン (ハヤカワ文庫 FT (69))

江豆町―ブリトビラロマンSF

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